人の心や人の気持ちが分からない人が人の心や人の気持ちを分かろうとして分かったこと

物心ついてから今まで、

「人の気持ちが分からない」

「自分の気持ちが分かってもらえない」

と、思っていた。

「何を考えているのか分からない」

「タカちゃんは変わっている」

「そやまくんは利己的」

「たかさん変」

同級生や学校の先生、親や親戚からも言われ、あっという間に人から何か言われるだけで、常にネガティブに受け止めてしまう癖がついていた。

「自分が変わり者だから人の気持ちが分からない」

という、
ネガティブな気持ちが
全身に染み込んでいった。

今でこそ、HSPだADHDだと、なんともうらやましい言葉がいろいろ増えたが、50年前にはそんな価値観は存在しなかった。すべて「変わり者」とか「弱い人」とか「足りない人」で済まされていた(いかにも昭和あるあるですね)。これが10年前なら、同窓会で当時の先生やら僕に意地悪した奴やらに、一言二言三言言ってやりたい気分になっていたかもしれない(書き終えて読み直したら、この部分を削除しても良いくらい、今はもうなんともありません)。

とりあえず勉強することで気分を紛らわせ、

「あの人たちは僕の気持ちが分からない(どうしようもない人たちだ)」

と、見下すことで自分を保っていた。

自分から人の気持ちを分かろうとしないから、人に興味がなくなり、鏡のように人からも興味を持ってもらえなくなった。どうせ自分のことなど分かってもらえないと決めつけているから、人を信用できない(人から疑われる)、人を信頼できない(人からナメられる)、人に頼れない(人が近づかない)、人と向き合えなくなっていった。

団体で盛り上がる人たちを見ると妙な気持ちになり、たくさんの人たちが何かをきっかけにひとつになる様を、気持ち悪く感じるようになった。

いつの間にか、人の気持ちが分からない自分こそが正しいのだと、人の気持ちが分かり合える人たちや、人と気持ちが分かち合える人たちを、反射的に軽蔑するようになった。

そうすることで、人の気持ちが分からない自分を正当化しようとしていたのだ。人の気持ちが分からない自分を人のせいにして、自分から分かろうとすることをしなかったのだ。

その結果、僕は孤立した。

友だちはいた。
彼女もいた。
結婚もした。
子供もいた。
クライアントさんにも恵まれた。
他にもいた。

みんな良くしてくれた。
本当に良くしてくれた。

でも当時の自分は、その人たちとちゃんと向き合えていたかと言えば、正直、向き合えていなかったと思う。自分の気持ちを人に伝えることを何十年もしたことがないまま何十歳にもなってしまったら、やたらと空気のような目に見えない存在を理想として、インヴィジブル(透明人間のよう)な立ち位置を好むようになってしまった。経済的にはサポートするから、静かに心穏やかに普通に自然にしておいて欲しいと、そんな関わり方しかできなくなってしまっていた。

自分で言うのもなんだけど、これはなかなか厄介だ。

人と関わると言うことは、その人と向き合うと言うことだ。分かち合えなくても良いから、相手の話を聞き、相手のことを思いやり、相手の考えを咀嚼し、相手の思いを想い、互いに相手の立場や考えが違うことを理解しようと努力することだ。運やタイミングが良ければお互いの考えがすり合わせられ、時には昇華し、時には化学変化を起こし、時にはゼロから1が生まれることもあるだろう。

それが人と向き合う醍醐味であり、人と関わることの本質だと思う。にもかかわらず、静かに心穏やかに普通に自然にしておいて欲しいと、自分から人を遠ざけるのは、人と関わり人と向き合うことを遠回しに拒否しているのと同じだ。

それでも半世紀も生きていると、そんな僕に気をとめてくれる人が何人か現れた。今、あらためて思い出してみると、あぁあの人も、おぉこの人も、なんだょそうだったんだな〜って人が結構いた。その時には気がつけずに申し訳なかったけど、今はあなたにしてもらったことを、僕は他の人にしてあげられます(その節は本当にどうもありがとうございました!)。

おかげさまで、結構、人と向き合えるようになってきたと思う。

言いたいことを聞いてくれる人がいる。

痛いことを言ってくれる人がいる。

駆け引きしなくても付き合ってくれる人がいる(男女問わず)。

今では人の話(悩みや問題)を良く聞き、その人が自分で解決策を見出すお手伝いまでできるようになった。ずいぶんと時間がかかってしまったけど、このタイミングが最善最良だったのだと思える理由も分かっている。

かすかな記憶の中にいる50年前の自分を思い出してみると、自分から見ても確かに自分は変わっていたと思う。今でもそうだが、これは間違いない。

今さらだが、退行催眠して50年前の自分に会って、言ってあげた。

「変わっててもいいんだよ」

「分からなくてもいいんだよ」

「分かってもらえなくてもいいんだよ」

「気にしなくていいんだよ」

「誰も責めてなんかいなかったんだよ」

「分からない」って言われたら、分からないその人に分かってもらおうとすることはできるかもしれないし、分からないその人のことを分かろうとすることは自分でもできるんだよ。分からないかもしれない、分かってもらえないかもしれない、でもそれは仕方がないことでね、、、別に分からなくてもいいんんだよ。

「分かるカナ?」

多分ほんとうは分からないだろうに、ぽろぽろ涙をこぼしながら、何度も何度も首をたてにふる、小さくてかわいいタカちゃんがいた。

何十年もの間、こんなにもかたくなになってしまうほど、本当は「分かってほしかった」だけだったのだ。

ゾーンの外を静かに感じてみる

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